細野漢方診療所 Hosono Kampo Clinic
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2009年3月22日東京マラソン参戦記

2009年4月10日 (金)

走るきっかけ

以前日課として、ラブラドール犬(エルビス)を伴って、20〜60分の散歩を、最低限の体調管理の一環としていました。しかし、そのエルビスは下顎腫瘍で2007年7月に他界してしまい、残念ながら以降は一人でウオーキングを続けることになったのです。いつも一緒に歩いた道を、一人でテクテクと歩きだし、5キロの散歩が6キロになり、7キロになり、11月には10キロ歩けるようになってきました。

12月初旬、信号が赤になりそうな大通りの横断歩道を急いで走って渡りました。今までならば走って渡っただけで息切れしたのですが、その時は何ともありませんでした。「もしかしたら自分も走れるのかな?」と初めて思った瞬間でした。それまでは自分の周囲の人達と同じく「走るのは苦手、無理」と最初から挑戦することなく決め付けていました。「よし、2008年1月1日になったら走ってみよう!」これがマラソン挑戦への第一歩でした。

体がもたない

走ってみる気になったのはいいのですが、1998年にスキーで左脚やってしまいました。関節面まで大骨折し、手術を受け1ヶ月半の入院生活を送りました。丁寧な手術のおかげで、今では日常生活には問題ありません。ただ、正座は出来ませんし、和式のトイレでまともにしゃがむことも出来ません。冷えると左膝は痛むし、ゴルフで1ラウンド歩くと膝が曲がらなくなります。

これでは、普通に考えてもマラソンに挑戦するのは「無謀」でしょう。お医者さんに言わせれば「やめなさい!膝どうなっても知りませんよ!」と怒られてしまうでしょう。

(右の写真にあるボルトは、今はありません。)

2008年1月2日の夜、まずは大通りまでウオーキング。そこから200メートル程先の信号機まで走ってみようと思い、軽くジョギングをしてみました。が、動悸が激しく、胸が苦しく信号機に辿り着く前にあえなくストップ。あまりにの情けなさに自分でも呆れてしまいました。しかし、それを何回か繰り返し、1月10日にはウオーキングに毛の生えた程度のジョギングで10キロ、休むことなく走れる様になってきました。

さすがに当時は10キロも走ると左膝は棒の様に硬直してしまい、痛みで曲げることも出来ませんでした。この頃から何となく「よし!東京マラソンに出るぞ!」という思いが湧いてきました。

走り始めて半年で体重も減り、25キロまで走ることも可能になってきました。同時に始めたロードバイクでは7月頃になると100キロ程度は半日少しで走破できるようになってきました。そしていよいよ東京マラソンの参加申し込みが(たしか7月22日)より開始されたのです!

「出場する!」と誓ったものの、体がもつ自信もなく、申し込むのを躊躇していました。ところが、8月のある日、患者さんのKヌギ君、彼は僕の勧めでランニングを始めて体調的にも精神的にも回復してきたのですが、「先生、もう東京マラソン申し込みました?僕もう申し込みましたよ。」とにっこり。彼の笑顔の一言が迷う心を断ち切ってくれました。そして10月にまさかの病気でのリタイア(夏の無理なトレーニングが原因でした)・・・結果として12月中旬までまともに練習出来ませんでした。

あれ!?当たっちゃった・・・・・よぉ。。。。

体調を壊している間に「東京マラソン当選通知」!がメールで届いてしまったのです。「よしっ!当たった(^o^)/!」ではなく、「ありりぃ?あたっちゃたよぉ・・・・どうすんの(ToT)??」が正直なところでした。抽選に落ちた方々からは「僕の分も頑張って下さい!」とか「うらやましいですねぇ」とまで言われ、代わってあげたい気分でした。

12月中旬には体も回復し、ここから練習全快!となりました。もちろんお正月休みは仕事もないし続けて休める貴重な期間ですから、「走り込むぞ!」と決めていました。しかし不幸は大晦日にやってきたのです。

目黒川に沿って五反田まで走った帰り道、今度は問題のないはずの右膝に痛みが出てきました。走ると痛い、歩くと治まる・・・しかし、そのうちに歩いても痛い、右膝が曲がらない・・・。どうやら典型的なランナーズニー、腸脛靭帯炎というやっかいな故障でした。翌日の元旦も3キロ程度なら走れますが、3キロ過ぎると膝が重くなり、次第に激痛に変わり走ることが出来ません。東京マラソンまで3ヶ月をきった時点でこの状態はかなり絶望的です。馴染みの寿司屋でまで「東京マラソン当たっちゃった!」と公言していたので、まさか「足痛くて出られませんでした・・・・」とか「リタイアしました・・・」という訳にはいきません。「ほらみろ、オマエが走るなんてやっぱり無理だ。」と口だけの人間と思われたくありません。

異様なプレッシャーで夜も眠れず、不安のあまり動悸まで感じ「これじゃあレース中には脚より先に心臓が止まるのではないか?」との恐怖を感じつつも、時間は自分の意志に逆らって3月22日に向かって進んでいきます。

懸命の治療

その間にも右膝の治療を懸命に続けました。幸運なことに東京診療所の畠中鍼灸師は、元々は整形外科に勤務しており、この様な運動障害や痛みを取る治療が得意です。空いた時間にマッサージや鍼灸治療を頻繁にしてもらい、3月初旬には10キロ走れるところまで回復してきました。3月18日水曜日、最後に軽く20キロランニングをして22日を向かえることにしました。ここでダメなら断念か・・・の思いとは裏腹に20キロまでは右膝は重いだけで痛くはなりませんでした。この時になって初めて、なんとかゴールを切れそうな希望が出てきたのです。

当日は25キロまでゆっくり走って、痛みが出たら歩いてでもゴールする・・・・これが、唯一にして最大の作戦です。目標は、脚さえ大丈夫ならば、トイレや休憩を入れて10キロ80分以内でコンスタントに行ければ、5時間半内でゴール出来ると言う、とてもレベルの低い目標でした。20日には夢見心地でランナー事前登録を済ませ、ゼッケンや計測チップをもらい、いよいよ緊張が高まってきました。

前日は、応援に来てくれる職員に応援ポイントをしっかり確認。仕事からの帰り道、コンビニに寄って朝食用にオニギリを買おうとしたのですが、既に昆布のオニギリしか残っておらず、仕方なくそれを2個買って帰宅。

家ではゆうかさん(娘)から「え〜、応援行っても見えないよ。家のテレビで見るから。じゃあ。」の一言。「まぁ、そんなもんだわな」と納得しつつ、明日の荷物を確認し、いつもより早めに床に就きました。

3月22日 東京マラソン当日・朝

予定では、ゆっくりと6時に起きる予定でした。「少なくともスタート4時間前に起きろ」と本には書いてありましたが、長時間の消耗戦になりそうなので、早く起きて体調不良のまま走るよりも、ゆっくり休んだ方が得策と思ったからです。

しかし、6時頃から「バッバッバッバッ」とヘリコプターが上空を旋回する音で寝ていられません。「何か大事件でもあったのかな??」と布団から抜け出し、朝食を摂ることにしました。朝から昆布のオニギリ2個はきつく、結局1個半でお腹が膨れてしまいました。いつも飲んでいる滋養強壮の漢方薬、五葉松、ビタミンなどをしっかり服用して、タクシーで集合場所の都庁に向かいました。タクシーの中で「ヘリコプターは東京マラソンの取材!」と気づき、また一段と力が入る!?・・・こともなく、家から5分で新宿に到着。

集合場所の公園は想像以上に多くのランナー達で溢れかえっていました。仮設トイレの前には長蛇の列。思い思いにウオーミングアップをする人。朝食を摂る人。記念撮影する人。その人達を眺めながら、ついにここまで来たと言う思いと、作戦通り走ろうと言う思いなどが交錯し、複雑な思いの中の楽しいスタートまでの待ち時間でした。

遙か遠くで号砲!

1時間程待ったでしょうか、遠くで号砲が聞こえ、空には輪状になった煙が漂っているのが見えました。

「あれ、なんだろう?テレビでやっているかな?」

と思い、家に電話をかけて聞いてみると「もうとっくにスタートしてるよ!」とのこと。周辺の人も号砲が気になるらしく、場の雰囲気もガサガサとして来ました。

すると会場を整理していた年配の東京陸連の方が、「押さないで、そこ!並んで!皆さんはね、時間は関係ないんだから!」のキツイ一言でどっと笑いが起こりました。

新宿〜品川(15キロ)

つまりここにいる人達は普通に4時間以上かかる人達で先を争ってタイムを競う意味はないよ、と言う意味です。先頭スタートから約15分程で、我々後方集団も手を振る石原都知事に手を振り返しながらスタートラインを通過することが出来ました。ともかく20キロまでは我慢して我慢して、スローペースを保つ作戦でしたから、道路の端の方を走っていました。みなさん4時間切るようなペースで結構勢いよく走って行かれます。

新宿をスタートし、沿道の大声援やボランティアの方々の「ガンバレ!ガンバレ!」の声援を頂き、ウオーキングに毛の生えた程度のペースで我慢のランです。前後左右大集団の中であっという間に10キロ地点の日比谷です。

元々、夜ランニングをしているので、躓くと危ないので習慣的に下しか見ません。ですからほぼ景色を楽しむことなく日比谷通過です。今から考えるとかなり勿体ないことをしました。でも、ここに美味しそうなイタリアンがある・・・・、YMCAを集団で踊っている人達がいた(ランナー達も一緒にYMCAやってましたが)・・・・などはしっかりと記憶しています。

こんなに楽しく10キロを走ったのは初めてでした。

日比谷を過ぎると徐々にランナー密度が低くなり、さらに快適に走れる様になってきました。新橋を過ぎて、足の骨折で手術・入院した大学病院を右手に見つつ進み、品川で折り返し。しばらく行くと対向側に松村邦洋さんが走って来ました。周りの人達が「まずいなぁ、松村とあまり変わらないじゃないか!」と言っていましたが、その後すぐに倒れられたみたいですね。とても他人事とは思えません。一日も早い回復をお祈りしています。

携帯には「車いすの部はもうゴールした」とメールがきました・・・・

しかし、もう既に歩いている人達の多いこと、多いこと。その中を軽く駈けて、なんとなく気分は最高!

品川〜銀座(15〜21キロ)

ものすごく快適に走れました。ここでトイレ休憩1回。少しお腹が空いて来たのですが、給食はまだありません。

日生劇場の前で、日曜出勤していた東京診療所職員の吉田さんが応援に出てきてくれたのに遭遇。

「おいおい!写真撮ってくれよ!」

「え!?カメラがない・・・・」

ということで、診療所からカメラを持ってきて浅草から引き返して来た時に撮影してもらうことにしました。

うわぁ、銀座の真ん中を走ってるぞ!!!

いつも車でしか通れない場所を走るのは、なんと爽快で楽しいこと。

銀座〜浅草(21〜28キロ)

心配された雨も小降りで止みました。応援・観戦の人達があまりにも多かったので、銀座界隈はちょっと頑張ってしまいました。

給食のバナナ食べて、スポーツドリンク飲んで、「よし行くぞ!」と思った時に、右膝にあの痛みが・・・・!!!

元々遅いペースが更に遅くなり、このまま行くとギリギリ5時間代のペースです。5時間半の目標は取りあえず引き下げ、5時間59分59秒を下回ることを目標に設定変更です。しかし、25キロ地点から右膝が痛くて、痛くて、歩いては走り、適当な場所があるとストレッチの繰り返しです。

浅草〜佃大橋(28〜35キロ)

かなりボロボロの状態でしたが、給食にあったアンパンがこの世の物とは思えないほど、とても美味しかったです。ひとつ食べたのですが、それでは足りず、お腹が空いてきました。次の給食ポイントまでは我慢です。しかし、横を見ればゼッケンつけたランナーがセブンイレブンのレジに並んでいるではありませんか!?またコンビニの前で座って何か食べている人達も。

どうしようかな・・・・とは思いましたが、う〜ん、苦しいけど我慢、我慢。買ったパン食べながら走っている人もいます。みなさんも同じくお腹が空くのですね。予想通りの持久戦の模様を呈してきました。

その頃、ゆうかさんからメールが。「今、雷門通った?映ってたよ!!」

こいつ、ずっとテレビで見ているのか?しまったなぁ、雷門の前は歩いていたかな?走っていたかな?う〜むぅ??

走ったり、歩いたり、ようやく30キロ地点を通過。残り12キロ!いつも夜走っている距離と同じだ!これは行けるぞ!! という気持ちとは裏腹に、右膝が言うことを聞きません。浅草〜銀座ってこんなにも遠いのか?それでも浅草の「むぎとろ」屋さん、かなり気になりました。

そうこうもがいているうちに、何とか銀座に到着。吉田さんから、「今度はカメラ持って三越の前にいる」とメールが来ました。三越過ぎてかなりヘロヘロな状態でカシャッ!

銀座からビッグサイトなんて目と鼻の先・・・・のはずです。しかし、本当のキツさがやってきたのは、35キロ佃大橋からだったのです。

佃大橋〜ゴール(35〜42.195キロ)

向かい風が強く、帽子を飛ばされそうになりながらも、ひたすら足を引き摺り前進あるのみです。ここまで来たらリタイアなどあり得ません。痛かろうが痒かろうがゴールするしかありません。

工事現場からおじさん出てきて、雨なのに傘もささずに「頑張れよ!頑張れよ!」って大声出で叫んで手を振っているし、マンションのベランダでは家族総出で手を振ってくれています。

これがみんなの言う、東京マラソンの感動なのですね。東京は冷たい・・・という印象を、地方の方はお持ちかもしれませんが、絶対にそんなことはない、東京は良い街だ!と、再認識させてもらいました。

あと、わずか7キロ。それが、きつい。とにかくきつい。

「きつい、きつい」と思っていると、右手を引っ張られるような感覚が・・・。「あれ?この感覚は・・・。そうだ、エルビスだ!」いつも散歩に行くと、ものすごい力でリードを引っ張られた、あの感覚がするのです。体が引っ張られて行きます。

次第に風雨が強くなり、膝だけではなく筋肉痛も出てきました。38キロあたり、雨の中、傘もささずになぜかエアーサロンパスを持って立っている方がおられました。個人的なボランティアの方のようです。その方からお借りして、エアーサロンパスを両足にかけて、出発!本当にありがとうございました! 驚いたのは、自分も含めた大半のランナーがノロノロ走り、歩きになっている中を猛然と走って行く人がいたことです。ウサギとカメの話みたいに、どこかで寝ていて今頃目覚めたのでしょうか?

その頃、携帯には「ゴールで待ってるよ!!」のメールが。

「テレビで見とくよ。じゃあ。」と言っていた無関心なゆうかさん、テレビを見ていて何か伝わることがあったのか、じっとしていられなくなりビッグサイトに来てしまったようです。

この地点で、給食のパンがかなり余っていたようで「2個持って行って!」と係の人が叫んでいます。「やった!アンパンだ!!」と思い2個取ったら想定外のクリームパン。無理矢理口に詰め込みながら後2キロの長いこと長いこと。永遠に続くのかのような2キロを、強い風に帽子を飛ばされそうになりながらゴールに向かいます。

辛くて楽しい時間もいよいよ終わりを向かえます。止まることさえなければ、必ずゴールはやって来ます。200メートル程先でしょうか?やっとゴールが見えました!

やった!ゴールだ!!スタンド前をゴールに向かって歩きます。もう膝は限界、一歩も走れません。後ろから来たランナーにどんどん抜かされながらのゴール!当初の予定より1時間遅れのゴールとなりました。

ゴール後は欲しくて欲しくて堪らなかった完走メダル、完走者タオル、そしてバナナとみかん、東京の水道水ペットボトルを頂きました。

さて、帰宅後、どれだけ減ったか楽しみに乗った体重計・・・。東京マラソン42.195キロ中、スポーツドリンク1リットル程度、ミネラルウォーター100ml、あんぱん1個、クリームパン2個、バナナ半分、みかん1個・・・。

あらら???なんとういうことでしょう!体重はほとんど変わっていませんでした。

Takao Hosono, Tokyo

この記事を書いた医師
東京診療所 細野 孝郎

院長【細野漢方診療所責任者】

細野 孝郎(ほその たかお)

03-5251-3637

漢方では、体を整えることで、病気を治したり、また病気になりにくい体作りをします。体のことでお悩みの方はもちろん、現在は健康だと思われている方も、ビタミンを摂るように、自分に合った漢方をみつけて、健康で楽しい人生を送りましょう。

昭和63年北里大学医学部卒
日本東洋医学会認定医国際抗老化再生医療学会名誉認定医国際先進医療統合学会理事千代田区医師会所属

川崎市立井田病院、藤枝市立志太病院、北里大学病院などを経て現在に至る。
北里大学病院では、膠原病・リウマチ・アレルギー外来を経て、漢方外来設立に尽力、担当。
1992年より聖光園細野診療所でも診療を開始。2021年12月法人(聖光園)から独立して細野漢方診療所として開設し診療を継続中。
得意分野:内科系疾患全般、月経困難症や不妊などの婦人科疾患、皮膚疾患。また、体質改善や健康維持など、加齢にともなうエイジングケアの漢方にも力を入れている。
趣味:猫、洗濯、料理、掃除、フルマラソン(サブフォー、ロンドン、シカゴ、ニューヨーク、ベルリン、フランクフルト、香港、東京、大阪、京都、神戸)など。

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